声の大きさ、声の量、正しさについて
20年くらい前から、インターネットを触り始めて、いろいろなサイトで様々な知識を漁り始めた。インターネットのお陰で、いろいろな知識を身に付けることができたと思う。
高校生くらいの時期は、いつもネットの情報が正しい、テレビは間違っているとか思ったり、ネットの情報にアクセス出来ない人は正しい情報が得られていないと思ったりしていた。
ただ段々とインターネットが浸透してくると、この内、一部は真実だが、そうでないことも多いということが分かるようになってきた。つまりインターネットも間違うのだ。例えば、レーシックは安全か、そうでないか、という問題はインターネットを調べてもわからないだろう。
もっと言うと、世の中には正しさが判断しにくい問題というものがあって、それに対する答えを見つけることは、いまのインターネットでは非常に難しい。そのことについてまとめてみたい。
インターネットはなぜ間違うのか
インターネットでの情報はだいたい下記の流れで形成される。
- ある人が意見だったり、情報を公開する
- その情報を見た人が、その情報を拡散する
- マジョリティーを占めた時、その情報が正しいとされる。
じつはデマが拡散してしまう理由もこうした背景にある。このステップを言い換えると下記のようになる。
- 声の大きい人が意見を形成する
- 声の大きさが、声の量に転換する
- 声の量が、正しさに転換する
**つまりインターネットは「声の大きさ=正しさ」となっているため間違うのだ。**声の大きさと正しさは全く関係ないのに、インターネットと検索エンジンやSNSという仕組みが、これを増幅させる。
インターネットを正しく使うために
だからインターネットを使うとき気を付けないといけないこととしては、僕は下記のようなことを思う。
- 見つけられる情報がいつも正しいと思わないこと
- 情報が出された背景を持って判断すること
- 声の大きさが正しさでないということを知ること
- 声の量が正しさでないということを知ること
- できれば、自分も意見を表明すること
正しさはいつも正しい訳ではない
さらに、もう少し、議論を広げる。実は正しさは、いつも正しい訳ではない。最初に書いたように「世の中には正しさを判断しづらい問題がある」からだ。
真善美と言われるように、価値観がぶつかる場面もある。論理的に正しいが、倫理的に正しくない問題。何かの犠牲の上にできる芸術作品。正しくとも感情が故に、受け入れらない問題。僕らはこうした問題に立ち向かわなくてはいけない。
真善美とは
認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう
実はこうした問題はインターネットだけに限られたことではないが、インターネットでは、主観的に始まった情報でも客観的情報に見えてしまうため、間違いを修正できないことが多いのだ。
自分の中で真善美のバランスを持って考えられているだろうか?
多様性を担保しつつ、ひとつを選びとるのに必要なことはなんだろう?
そんなことを悩みながら、モノゴトを進めていく。僕らはこうした問題に立ち向かわなくてはいけない。