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Web日記(web-nikki)

なぜ教育機関は能動的学習に転換できないのかの7つの仮説

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エンジニアのカンファレンスであるKaigi on Railにて角谷信太郎さんの発表を聞いた。内容としてはJeremy Evans著のプログラミング関連書籍『Polished Ruby Programming』の翻訳に至る背景の紹介だったが、角谷さん発表はいつも背景に多くの知見が紹介されていて、余裕があれば深堀りしてみることにしている。

Polishing on “Polished Ruby Programming” by Kakutani Shintaro - Kaigi on Rails 2021 _Jeremy Evans著『Polished Ruby…_kaigionrails.org

その中で『状況に埋めこまれた学習ー正統的周辺参加』という書籍が紹介されていたのを見つけた。中身を確認してみると、僕自信の教育に関する古典的知識が掛けていることを実感した。本書に書かれていることの大部分は理解できたと思うが、こうした理論がでてきた背景の部分で紹介されている知識がわからなった。

教育的な知見でいうと、(1)従来から興味があったテクノロジーを使った先端の事例調査及び、(2)成田悠輔さんや中室牧子さんを代表するような教育とデータ分析を用いた研究、(3)Gritなどに代表されるトレンディーな考え、あたりをフォローしておけば良いと思っていたが、それが覆された。

そこでさかのぼって、教育哲学的な部分をざっと網羅してみることにした。具体的にはジョン・デューイ、ディック・ブルーナ、ジェローム・ブルーナーあたり。要は哲学的な部分でいうとプラグラティズム、教育的なところで行く教育心理学はこれまであまり触れる機会がなかった。

(イヴァン・イリイチ、マリア・モンテッソーリ、ルドルフ・シュタイナーおよびプラトン、ルソーあたりは個人的趣味の範囲で読んでいたが)

まだまだ、理解が浅い部分があるが、ざっと軽く読んだ段階での考察をまとめてみたいと思ったため、この記事を書いてみることにした。

勘違いしていたこと

サルマン・カーンや、クリステンセンなどが反転学習、完全習得学習を推し進めてめていると思っていた。具体的に下記の動画を見てそう思った。

https://www.ted.com/talks/sal_khan_let_s_use_video_to_reinvent_education?language=ja

そこからサルマン・カーンの書籍を読んで、サルマン・カーン=完全習得学習を考え、推進している人だと理解をしていた。そうした背景から下記の記事を書いている。

2020年以降、教育業界はどのように変化するか(するべきか) _2020年以前のEdTechの流れのおさらい_geeknees.medium.com

(サルマン・カーンが完全習得学習のコンセプトを考えたとか書いていないし、完全習得学習を実装しようとしている功績を下げるもではないが)

実は完全習得学習のコンセプトは50年前にジェローム・ブルーナーが、個別化の考えは100年前にジョン・デューイが、さらに知識より経験重視の考えは250年以上前にルソーが提言している。能動的学習の重要性は以前から活発に議論されていた、このことを勘違いしていたのだ。

ルソーは言い過ぎとしても、100年以上前に考え出されたコンセプトは声まで実現してこなったということになる。そこで疑問が出てくる、**なぜこれまで能動的学習が、受動的学習を置き換えてこなったのか?**という疑問だ。

なぜこれまで能動的学習が、受動的学習を置き換えてこなったのか?

テクノロジー(インターネット)の出現によって能動的学習のコンセプトが作り出されたのであれば、能動的学習がメインストリームになる希望が持てる。しかしながら、能動的学習が、テクノロジーの出現によって再度スポットライトがあったというのが真実のようだ。

そう考えると、なぜこれまで実現できなかったのか、ということを見逃すと落とし穴にハマる可能性がある。率直に言って現時点で答えはない。なので、現時点では仮説のみ列挙する。

仮説1:受動的学習のほうが能動的学習のほうが学習効果が高い、または、どちらが良いか測定できないから

そもそも学習効果の測定というのはとても難しい。なぜなら学習における効果を予め定める必要があるから。

加えて学習効果の変数は、学習法の一要因だけでは決まらず、しかも測定期間は長い。

解決策の方向性として、少なくともどの要素があるのか、データが集められている部分はどこまであるのか、関係者がオープンに共有できる仕組みはあるか、など初めるのが良さそう。

仮説2:教師が能動的学習に適応できない、または、教師のリソース確保が難しいから

学習を教師一人あたりの生産性で考えるとこの考えになる。教師個人問題と、生徒全体を教えるのに必要な教師人数が増えるようになる可能性がある。

能動的学習になることで教師が減る考えもあるので、教師のスキルセットの変更にかかるコストが大きいとも言えるかもしれない。

解決策の方向性として、今までの先生のスキルは決して無駄にせず、一方で新しく採用する先生には別のスキルを求めていき、順次切り替えていく方針が現実的。加えて、今までの先生のスキルを活かして、別のスキル獲得できる機会を増やす。

仮説3:教育機関に求めるものが教育ではない、または教育だけではない

教育機関に求めるものが例えば規律を守り集団生活に慣れることを求めている、または子供を安全に預かってくれる空間を求めているというもの。

誰が求めているか、というのも大事で、行政が求めているパターンもあるし、保護者が求めているパターンもありそう。

これは企業が言っていることを真に受けると、能動的人材の重要性を訴えているので打開のチャンスは有り。一方で日本企業の育成システムも受動的学習がベースになっていて障害になっていそうな気もする。

解決策の方向性として、まずはデータ収集。公教育などでも積極的に保護者にアンケートを実施し、データを共有していくと良さそう。ワークショップなどで共創する仕組みも効果的かもしれない。

仮説4:既存設備(教室)などが能動的学習の障害になっている

机や黒板といった設備が障害になっているケース。サンクコストによって変更できないようなパターン。実は教科書などの教材、教師マニュアルの資産も障害になっているのかもしれない。

イノベーションのジレンマ。スタートアップ的なアプローチ、つまり特別校、や民間の力の活用が言われている一般解。正しいかはわからない。また、利用者が低いものは思い切って廃棄するといった大掃除的なもの発送的にはありうる。

仮説5:教育における普遍的価値感、全員が等しく身につけるスキルの定義ができていない、または多すぎる

少しややこしいのだが、能動的学習、個別最適化を推し進めて行く場合においても全員が等しく身につけるスキルや価値観は存在する。

例えば周りの人を尊重する、など。この普遍的価値感が関係者全体で共有できていない、またはボリュームが多すぎる。

これも仮説1と重なるが、ひとまず議論することか初める。一方で思想的な問題となり感情的になりそうな予測もある。個人的な意見としては幼児教育から初めること。と、女性や外国人などを入れて多様的な議論をすること。

仮説6:義務教育(一般教育)と高等教育の区別ができていない

等しくみんなができると良い一般教育と、人とは異なることをすることに価値がある高等教育とは性質が異なる。読み書き、と研究室での研究に分けてみるとわかりやすいかもしれない。この2つを分けて考えていないため問題が起こっている気もする。

特に問題なのは一般的な教育が能動的学習に転換できないこと。どこまでを義務教育として提供し、高等教育とは分けて考えるようにするか、また、高等教育はどのようにコミュニティとして成立させるのか、という2つの議論として進めたほうが良い気がしている。

仮説7:従来型学習と能動的学習を対立軸にしてしまったから

ここまで色々と仮説を書いてきたが、最終的に思うことは従来型学習と能動的学習を対立軸にしてしまったからと思う。従来型学習の良いところを残し、能動的学習にアップデートするにはどうするのか、という観点が大事と思うに至った。対立することによって硬直化する。教育をアップデートしようと考える場合はこのことに向き合う必要を感じた。

今後も教育分野を深堀りしていきたい。